なんで第二次大戦に参戦してしまったのかよく理解できないので、加藤陽子さんの本なぞをめくってみたりしたのだけれど今一つぴんと来なかった。それが、山本七平の「『空気』の研究」を読んだらなんとなく腑に落ちた気がする。
「いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機動部隊が跳梁する外海に突入させるということは、作戦として形を為さない。」
「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切りこみ、ノシあげて陸兵になるところまでお考えいただきたい。」
「それならば何をかいわんや。」(P.18)
という「空気」。そうであったのだろうな。
ただ、山本氏の「空気」を「臨在感的把握」と解するところはちょっと違和感があって、東西文化の話題で気づいたようにその場その場で華を咲かせむとする「刹那的」把握のほうが自分としてはしっくりくる。同じものかしらん?
まあ、次節の「水=通常性」と続く「日本的ファンダメンタリズム」に至って、合理性の権化のような科学を合理性の原動力たる「非合理的ファンダメンタル」にほど遠い文化を背負ってやるのはしんどいな、とまた言い訳を見つけた。ま、「おっちょこちょい」なんで。
(25Nov2023 追記)
同じようなことを『敗戦真相記』(永野 護) は「科学無き者の最後」と米国作のニュース映画のタイトルから引用して説明している。ここの「科学」は「テクノロジー」と「マネージメント」も含む。永野氏が喝破した「自由通商主義ということをいつの間にか忘れて、日本の国の利益のみを目的とせる自給自足主義を大東亜共栄圏建設の名前で強行した」という敗戦の原因がいままでいろいろ読んだ中ではもっとも分かりやすい。この根本原因から (1) 戦争目的に説得力がない (2) 敵軍の過小評価と自軍の過大評価 (3) 国民の納得の欠如 という三敗因が導かれる。これが 1945 年 9 月の講演というからなんとまあ。