まだ進行中の話で多くを語れないのだが、いはゆる大規模言語モデル (LLM) に書かせたっぽい論文がだんだん身近に出回ってきているらしいという話。 現在のところScience, Ocean Scienceてな感じで、英文修正程度の使用は許されるが 文章の作成などは不可だし、使ったとしたら必ず使用モデルなどを開示する必要がある。ところがこれって完全に性善説。 つまりやろうと思えばガンガン使っておいて「使っていません」と宣言すれば読者側でそれを反駁できないという。 (Claude は「透かし」を入れてくれるらしいが。)
さらに話が複雑なのは、内容が科学的に正しければ LLM 使っても良いじゃんという立場も一理あるということ。 もし科学がプロセスではなく結果だけで語れるものならばそうかもしれない。ところが、(現在のところでは一部の過激派を除いては)投稿された論文は仮にそれが LLM に書かせたものであったとしても、対応するのは 人間編集者だし査読するのも人間査読者である(後者に関してはぼちぼち微妙なケースもでてくるだろうが)。 あらよっと機械に 1 時間で書かせたものを人間すくなくとも2名が合計 12 時間くらい(体感)かけて読み直すというのは、科学を進歩させているか どうかの議論以前に人間側としては不快である。
「不快」とかそういう主観を科学にもちこむな、というのも正論。一方で現在発表中のノーベル賞とかみてると、成果に対する受賞であることに異論はないが 報道や自分の興味はあんがい受賞者の苦労話だったり変人ぶりだったり科学的成果とは別の人間ぽい側面だったりする。同じ人間がこんなすごい こともできる、という驚異。鍛えたスポーツ選手が美技で会場を沸かせるという場面に例えたら飛躍しすぎかしらん。 でも論文を読むときは(少なくとも今のところは)それを書いた人の努力に対する敬意(と羨望)を持ちながら読んでいるし、そうした方が 読んでいて楽しいし。その意味で LLM はスポーツのドーピングみたいな立ち位置かも。記録がでれば使っても良いじゃん。
科学の最大の特徴の一つは属人性の排除(誰がやっても必ず同じ結果が出る)だけれど、だからこそそこで排除された属人ネタというかプロセスが仕事の優先順位を変えてしまったりする。つーか科学の一番美味しいところを機械にやらせるのは勿体無い。
最近のナヴィエストークス方程式に関するごたごたもわれらが同胞が知恵熱を出しながらも一歩一歩登り詰めてきた 9 合目でヘリコプタで現れた人造人間が山頂に届く梯子をかけて登ってしまった感があるのではないか。