「境目があいまいになるとき ... ひとは ... 感情的に反応する」




12 Dec 2023

Haskell というか関数型言語の考え方は名詞中心で、命令型言語のそれは動詞中心と思う。後者は当たり前として、前者は「代入がないから、ある演算の結果を後程使うには名前を付けてしまっておかなくてはならない」という性質からやはり当たり前ともいえる。一時的な量だから短い名前を付けるかエディタの補完機能を用いて長い説明的な名前を付けるか(でもあまり長いと一行に入らんし)いろいろセンスを問われるところで、これがまた楽しいところ。

視覚にしろ聴覚にしろ、連続で入ってくる情報に「区切り」をいれて「もの」として、あるいは「ことば」(「音」でも良い)としてとらえるのが、これまた関数型というか名詞中心というか。

ひとは連続的な存在のなかに〈意味〉という不連続の切れ目を入れて、差異の体系として秩序を形づくる。 男/女,おとな/子ども、内部/外部、自己/非自己、親族/他人、正常なこと/異常なこと、食べられるもの/食べられないもの、有害なもの/無害なもの ⵈ いろいろな区切りを世界のうちに設定していき、そうした意味の体系によってじぶんたちの生活に一定の安定したかたちを与えているのだ。 だからそれが崩れる気配にはとても敏感である。それを少しでもあいまいにするもの、ないがしろにするもの、侵犯するものを、どんどん摘発していく。 ―『ちぐはぐな体』鷲田清一

関数型の喜びがこんなにも根源的であったとは。構造主義?なんにせよ、これでいろいろ腑に落つる。