江戸者の生れそこない金をため




02 Oct 2019

子どもが試験勉強だとかいうことで憲法13条を耳にした。「幸福追求に対する国民の権利については(中略)最大の尊重を必要とする」と。では「幸福」ってなに。

金はいろいろと便利で、あればあるほど良いもんだから家で昼寝しているより金儲けしたほうが「良い」ということになってる。ではそれは「幸福」なのだろうか。本人が辛い苦しい思いをして金を貯めるが不機嫌を撒き散らしているって場合と、本人は自分の好きなことをやって結果としてあまり金儲けにならず貧乏だけどにこにこしてるってのは極端すぎるだろか。やはり金は稼ぐより使うほうが難しいってのはこういうことだろう。

自分が純粋に「幸福」であるということに敏感でなければいけない。自分は世間が良いとすることをやっているから幸せではなくて、もう純粋に誰が見ていようと見ていまいと幸せってのが純粋。(純粋ってのは酒とかクスリの高揚感との区別も込めて。)まあ結局は感受性の問題ではないか。自分の「幸福」感をどれだけ知っているか。ここで一歩立ち止まってどう金を使えば「幸福」が最大化されるか、と考える。あるいは感じる。それをすっとばしてとりあえず金は貯める、ってのは。

ふらふら遊んでいるより仕事したほうが良いから、空き時間があれば仕事する。仕事が楽しければいいだろう。でもつまんないけど他にすることもないし世間が良いとする仕事しとく、それで「幸福」が追求できているのか。ここはやはり一歩立ち止まってどう時間を使えば「幸福」が最大化されるか、と。

ノイズにまみれたデータに理屈に基づいたフィルターをかけて何か構造が浮かび上がってくる。その鋭い喜びと世間が「役に立つ」と評価するのはどちらが「幸福」なのか。もちろん二元論ではないし、後者が前者につながるのもまた「幸福」かもしれない。