海洋物理学は地球流体力学なのだが




01 Oct 2014

以下は宇沢弘文さんという経済学者を追悼する弟子の方の文章。「経済学」を 「地球流体力学理論」と置き換えると、乱流たる海洋循環の物理研究の悩ましさそのもの。

主流の経済学は、数理言語で設計された「シミュレーション・ゲーム」の類いである。だから、主流の経済学者というのは、単なるシミュレーション・ゲームにゲーム機で興じているゲーマーにすぎない。もちろん、シミュレーション・ゲームだから「無意味」「無価値」だ、などと結論付けるつもりは毛頭ない。物理学だって、シミュレーション・ゲームという点は全く同じだ。ただ、物理学では、そのシミュレーション・ゲームが相当な精度で現実を模写している点が違うのだ。物理学のゲーム画面は、「現実」そのものなのだ。だから、このゲームに興じることは、そのまま現実の問題を解くことになるのである。一方、経済学のゲーム画面は、「現実」とは悲しいほどに遠い。ひょっとすると、「現実と相容れないフィックション」に陥ってさえいるかもしれない。数学というものが宿命的に備える「形而上性」のただ中にいるままなのだ。だから、経済学の結果に「現実」を見ている学者たちというのは、「バーチャル世界」「疑似空間」を現実と混同してしまっている、いわゆる「ゲームおたく」と同じ存在、そうぼくには思えてしまう。

もちろん、だからと言って、経済学が「完全に無意味」とまでは思わない。経済学のゲーム画面には、「現実に対する寓話性・教訓性」ぐらいは備えているだろう。だから、経済に関する何かを考えたり、実行したりする上での「羅針盤」程度の役割は果たしていると思うし、それはそれでとても大きな貢献とも言える。

しかしながら「心を砕」く「問題」が海洋に見つけられるだろうか。

でも、宇沢先生は、その「ゲーム画面」が耐えられなかったに違いなのだ。なぜなら、宇沢先生が最も心を砕いたのは、貧困や環境問題など、人権に関わる問題だったからだ。宇沢先生は、恵まれない人々や虐げられた人々、そして環境資源などを単なる「パラメーター」に置き換えて、ゲーム画面にキャラクターとしてはめ込むことに大きな抵抗感を持っておられたのだと思う。